家族の死
/皆様こんにちは、朝倉裕美子です。
7月初旬に、突然、父が亡くなりました。
父は慢性病を患ってはおりましたが、体調は安定しており、安心していたところの突然の訃報でした。
朝早く母のいた居間に降りてきて、ソファに横になり、アイスを食べたいと言い、母がアイスを持ってくる間に息を引き取った、とても静かな死でした。お医者様からは、苦しむことなく、とても短い時間で息を引き取った、「自然死」と伺いました。
私はその知らせを、父が息を引き取った1時間後の、イギリス時間の夜に、電話で聞きました。所用でイギリスの地方都市のホテルに一人でいたところでした。
自宅での突然の死だったので、検死になりました。私は父が死んだことがあまりにも非現実的で、受け入れることが難しかったのですが、その時には、何よりまず、その事実を受け止めて、父の魂を守るための行動を取らなくてはならないと思いました。
通常、人間が死んだ時には、特別に準備していない場合には、肉体やオーラから、その人生の情報(精神や記憶、体験など)が抜けて、魂が持っていけるようになるまでに、2−3日間かかります。死んで間も無くの検死解剖によってまだ情報の抜けきっていない、肉体やオーラに傷がつくと、傷ついた情報がその場に地縛してしまったり、地縛したものを取り上げて魂に返したとしても、魂レベルでのトラウマや傷を残してしまいます。まずそれを、急いで回避しなくてはならないと感じ、すぐにワークをしました。父のこの人生での精神や記憶などのオーラや肉体にある情報を急いで余すことなく取り上げて、父の魂に渡したのです。
丁寧に速やかに行ったので、間違い無いと思えましたが、念のため、友人のシャーマン数人に確認してもらいました。確認してくれたシャーマンの友人達は、父や私や家族にもヒーリングを送ってくれました。父の様子を伝えてくれた友人もいて、私が知り得たことを確認できて、安心できました。
それからは私は、火葬前に父に会うために、急いで準備をして、日本に帰らなくてはなりませんでした。父に会うまでは、何としてでも、父に会うまでは、しっかりして頑張らなくちゃと思いました。父に会って、本当に逝ってしまったのが、この非現実を現実として受け止めたいと思いました。
もう深夜でした。ベッドに入って父の様子を見ようと思いながら座って、頭に浮かぶの言葉は、「お父さん、お父さん、お父さん」それ以外の言葉は全く思いつきませんでした。ずっとずっと繰り返し父を呼び続けました。「お父さん、お父さん、お父さん…」
しばらくして、父が近くに来るのがわかりました。父が目の前に来たら、本当に逝ってしまったと気付かされて、崩れてしまいそうでした。すると、父は私を後ろから抱きしめてくれていました。お父さんはもう大丈夫。そう思えました。私がしっかりしないと。
私の両手に父の両手が重なり、両手を握ってくれているのがわかりました。お父さんの手。そう思いました。「眠るまでずっとこうしているから、もう寝なさい」そう言われているようでした。両手を握られているので、何も作業ができません。でも、何もできないから、私はそのままベッドに入り、朝まで眠ることができました。
翌日は長距離運転で、何時間も高速を飛ばしてロンドンに帰らなくてはなりませんでした。そのためにはちゃんと睡眠を取らないと危ないのです。動揺して眠れないだろう私を守るために、そうしてくれたのだと思います。
私は事務や事務的な手配が苦手です。でも頑張らないと。翌日地方での用事を済ませて、無事ロンドンに帰ると、そこから航空券の手配の電話、その他様々な手配をしながら、仕事の準備も含めたスーツケースの荷物を作りました。何とか父の葬儀に間に合って帰国できることになりました。
イギリスの友人が、私がロンドンに帰って来てすぐに駆けつけてくれ、日本に帰国するまでずっと付き添ってくれ、家事や運転、私のケアなどをしてくれました。「おうちも片付けておくから、安心して行っておいで」と、空港行きのタクシーに乗るのも見送ってくれました。もう一人の近所の友人が、おいて行く猫や金魚、植木達の世話を引き受けてくれました。
娘は、出発当日のタクシーが来るまでに、夏休み前の学校を終えることができ、宿題を詰め込んで、一緒に出発しました。とにかく父に会わなくちゃ、そして母を支えなくちゃと思いました。
飛行機を乗り継いで、自宅近くの空港による遅くに着くと、雷雨の中を義理の妹が姪と一緒に迎えに来てくれていました。喪服を着ています。そのまま父の居る葬儀場に行きました。
父を見るのがとても怖かったんです。本当に逝ってしまったのを、受け入れるのが辛くて。でも、父は本当に安らかないい顔をしていました。ほっぺたに触れると冷たいのです。顔や頭にいっぱい触りながら、撫でながら、お父さんとお別れをしました。
お葬式には、親戚がたくさん集まってくれました。娘が「親戚の人達が、一人残らず、全員、すごくいい人でびっくりした。すごいね。」と言いましたが、本当にそうでした。みんなの愛と笑顔が溢れて、父の思い出に笑顔が溢れて、愛の塊みたいな、本当にいい葬儀でした。色紙に父への言葉を書いてもらいました。それをお棺に入れました。父が愛されていて、みんなのいい思い出の中に笑顔の父がいることに、癒されました。みんながいうように、父は気高くて、カッコ良くて、頭脳明晰で、神聖にもスピリチュアルで、何よりすごく優しい人でした。
子供の頃から私は、父と母を尊敬していますが、大学でうちを出てからは、実家に帰って来るたびに、自分の家族の素晴らしさに感動しました。そんな家族がいることが、いつも私の誇りです。
母は、父と二人で一人みたいな人です。父は母がいないとダメだし、母は父がいるから母でした。これからは母は一人で母です。母はパワフルで、奇跡のような、魔法のような母なのですが、父の死後は別人のように元気がありません。ちょっとずつ元気になってきているけれど。私の今の使命は、母が大丈夫になれるように手伝うこと。
葬儀が終わり、自宅に帰って来ると、父の部屋に滞在することにしました。父の書斎や寝室には、子供や孫の館の写真や絵がたくさん飾られています。私の子供の頃からの写真も、いくつも飾ってありました。寝室にしていた和室の床の間には、私が20代はじめに描いた水彩画と、私の3歳の時の大きな写真が飾ってありました。これを見て、私のことを考えてくれていたのだと思います。父のことを思うと、悲しみで、胸がいっぱいになります。本当に逝っちゃったんだよね?
父の服は、ほとんどが私が贈ったものでした。かっこいい父のために、オシャレな服を色々贈りました。それがとてもよく似合っていて、よく着こなしていて、本当にかっこよかったです。亡くなる2週間ほど前に贈ったばかりの、父の日のプレゼントのシャツを、父はとても喜んでくれて、何度も嬉しそうにその話をしていたと、母に聞きました。そのシャツをまだ一度も着ることなく逝ってしまいました。
海外の仕事に出るたびに、その土地の風景の写真のポストカードを、山や湖などの自然や歴史を訪ねる旅行が好きだった父に送りました。父の書斎のデスクの引き出しには、最近イタリアのドロミテから送ったカードがありました。
父や両親を連れて、イギリスやヨーロッパのあちこちを旅行できて、幸せでした。父へのカードや贈り物に入れる手紙で、父を尊敬していること、父が大好きなことを伝えられてよかったと思いました。特に父の体調が悪くなったここ何年かで、コロナで制限があっても、頑張って毎年何度も会いに行き、一緒に過ごせてよかったと思いました。感謝です。
今も、父が生きているような気がすると、家族と話しています。父の車にも、父の部屋にも、庭にも、父がいるような。きっと四十九日まではそうなのかな?
四十九日までは、父のお骨を小さな容器に入れていただいたものを、持ち歩いて、父と過ごす気分で過ごしています。その後には、父のお骨は、父が大好きだったイギリスのある湖に散骨したいと思っています(幸いイギリスでは許可を取る必要はありません)。写真は、父が好きだった海辺のある場所で摘んだ野の花です。遺された父のカメラは野の花の写真でいっぱいだったそうです。父と一緒にドライブしたことを思い出し、父に話しかけながら、景色を楽しみ、父が好きだった野の花を飾っています。
不思議なのは、父が亡くなってから、父がずっといてくれている感じがすることです。生きているときにも、私の支えでしたが、離れていました。でも、今は、すぐそばにいる気がします。亡くなってから、父はとても強く私を守ってくれるようになりました。気のせいかもしれませんが、父がこの世界の全ての一部になったような、そんな感じです。
全ての瞬間と、出会いと、この世界の全てに、感謝しつつ、生きて行きたいと思います。
愛と感謝をこめて
朝倉裕美子