知ることをあきらめて、全てを知る

以下は「残虐性の癒し」イベントのライトワークを終わったヘイスティングからロンドンに帰る電車の中で書きとめたメモです。このイベントのテーマにも関係ある内容になっております。

心惹かれる風景が通り過ぎていく電車の中から、通り過ぎた風景のはるか彼方に続いているあらゆる世界を吹き渡ってたどり着いていく風を思う。風の中に通り過ぎた世界がある、風の中にこれからたどり着く世界がある。

木に触れると、その木が触れてきた風と大地と太陽と水の歴史を感じる。風と大地をたどって伝わった振動が、木の中に残っている。その木を成しながらとどまり生命の歴史となる水の振動が震え続けている。その木を成しながら伝わる太陽の鼓動がその木の生命が肺になるまで脈々と打ち続け、この星を存在させているあらゆる星雲と星座の位置を伝えている。地球となってその魂をはぐくみ続けるスピリットの輝きが、生と死を超える不変である一つの存在を思い出させる。始まりも終わりもなく、今も過去も未来もない世界の輝きと音が聞こえてくる。

一瞬一瞬の世界を創造している意識を自分の中に感じるとき、あらゆる概念が融け去り、生と死を超える存在の、何の方向性も達成も目的もない全く純粋な喜びだけを、ただ絶望的に陶酔の中で感じることができる。すべての認識と記憶と知識は手のひらに舞い降りる雪のように次々と融けゆき、水となってあらゆる存在と融和し始める。それなのにまだ自分が存在していること自体に、無限の喜びを感じる。決して説くことのできない数学の問題のように私の魂を鼓舞するのはそういう瞬間だ。そうしてもまだ存在していることから、自らの無知を感じることに、安堵と喜びと未来を感じる。

何かを知ることを完全に諦めたとき、すべてを完全に理解することができる。それはすべて形あるものを形ないものの全てである無を捉えることだと思う。何も完全に理解できることはなく、完全に理解できるものはすべて架空である。つまり理解することをあきらめたとき、この世界はちょっぴりリアルになり、その実体を捉えることができるようになるものだと思う。理解しようとして捉えるものには実体がなく、存在していることだけが、それが完全に純粋な経験である時に、その瞬間瞬間で変容していく永遠に変化し続ける真の実体となる。

2012年8月28日 仲裕美子


“Our deepest fear is not that we are inadequate. Our deepest fear is that we are powerful beyond measure. It is our light, not our darkness, that most frightens us. We ask ourselves, who am I to be brilliant, gorgeous, talented, and fabulous? Actually, who are you not to be? You are a child of God. Your playing small doesn’t serve the world. There’s nothing enlightened about shrinking so that other people won’t feel insecure around you. We are all meant to shine, as children do. We are born to make manifest the glory of God that is within us. It’s not just in some of us, it’s in everyone. And as we let our own light shine, we unconsciously give other people permission to do the same. As we are liberated from our own fear, our presence automatically liberates others.”

*出典:Marianne Williamson(1992)”Return to Love” (hardcover p. 165, paperback pp. 190-191)