光と闇の統合

私達の中に光と闇が統合されるとき、私達は自分自身とこの世界をどのように体験するでしょうか?

苦しいとき、私達はその苦しみから逃れようとします。
悲しいとき、私達は悲しみを忘れたいと思います。
でも、その苦しみや悲しみは、
私達が、必要があって、感じているものなのです。

私達の愛が私達の愛と人生の目的を成就できるように、
そしてそのためのステップを全うできるように感じているのです。

私達が、持って生まれた目的と、この生命の成就そのものである、
「生まれて来てよかった」と強く思えるような、
大きな喜びの達成のためのゴールを見失わず、
宿命である深く大きな喜びを達成することができるように、
私達の魂が、私達に感じさせてさせているのです。

悲しみや苦しみが、私達に求めるのは、
まだ存在していない世界であり、
まだ創造されていない私達、
つまり神聖な創造そのものを象徴する、
新しい自分なのです。

そうした未知なる世界と私達への希望があるから、
そしてその希望は、私達の本質的な方向性だから、
それがない今に、どうしてだか絶望してしまう、
それが満足できるまで辛いのです。

その絶望は、完全な絶望ではなく、
私達に達成できる希望が、生きている限りあり続けるから、
時には生きていることが辛いのです。

私達は、一人一人が、
知らない間に絶望を超える「可能性そのもの」であり、
どこにも無いものを、
自分を含める誰も想像さえできなかった独自の方法で、
創造する叡智とエネルギーを秘めた、神聖な存在です。

その方法は、誰にも教えてもらうことができません。
私達は、一人一人が、その方法を知らないまま、
気づいたらその未知の方法を使って、創造を成し遂げるのです。

「知っている」という行為が、
経験や与えられた知識によるものではなく、
内なる叡智により突き動かされて、
自分自身さえを創造しながら、
新しい経験や知識を作る行為によって、
私達にもたらされる時、
私達は、孤独と不安と絶望を超えながら、
偉大なる「ひとつ」を生きることになるのです。

ワンネスは、
他者である皆とその属性や特徴が同じあるいは等しいと共感することではなく、
私達のこうした神聖なる創造が、
自分という一人の人間によって行われながら、
それが自他への愛のために、自他への愛によって、
意識的な目的やゴールを達成するのではなく、
その愛と喜びを全うするということのためだけに行われる時、
全人類、宇宙の全てが、自分を通して、
その集合的愛と力を顕しているのだと感じることなのです。

そして、一人の人間として感じた孤独を、
私達が完全に超え、
独自であることにより、ひとつであることを、
内からほとばしる喜びとともに感じることが、
「ワンネス」の自覚なのです。

生きているということは、
私達の意識がどうそれを捉えるとしても、
間違いなく、希望がある状態なのです。

愛があるから、希望があるから、私達は前進し、生きているのです。

生きているだけで、存在しているだけで、
私達は常にそうした偉大な創造の一部なのです。
どの一瞬も、たとえそれを感じていない時でさえ。

愛する人の腕の中に抱かれているとき、私達は時を忘れます。
時が止まっているように感じます。
そしてそのまま時が止まっていてもいいと思います。

全てが満足し、至福です。

でも、私達は生きています。

そんな至福の中で、考えられないことは、私達がそれ以上に幸せになり、
それ以上に豊かになるということです。
それが考えられないから、時が止まればいいと思う。

でも、時は止まりません。

私達は、さらに幸せになり、豊かになり続けるのです。

お金や名声によってではなく、
愛の喜びによって、
幸せになり、豊かになるのです。

そうして、私達は生き続けます。

そして何も無いところから生まれた時から始まった、
いつか何も無いところに戻る死に向かって、
存在することをやめないのです。

生と死の制限によって、私達はこの生命を受け取り、
この生命である「喜び」を全うするのです。

私達は、どんなに見失っていると感じる時にも、
生きている限り、こうした神聖であり偉大な使命についています。

それを感じることができることを、
「覚醒」と呼んでもいいかもしれません。

しかしながら、「覚醒」はゴールではありません。

「覚醒」は存在の癒しです。

「覚醒」していなくても、私達は生きている限り達成し続けます。

達成していることを感じることができるとき、
その喜びに満ちる時、私達は「覚醒」したと感じ、
今までの苦しみが幻であることを知り、魂が癒されます。

でも、それでも生きている限り、
それは続くのです。

私達は「覚醒」の段階を次々体験しながら、
絶望した仲間達を励ましつつ、同じく、生き続けるのです。

悲しみや、苦しみは、
私達にさらに幸せになり、さらに豊かになることを求めるのです。

もっと幸せになれるから、悲しい。

もっと豊かになれるから、苦しいのです。

生きている限り、私達は、創造し続けるのです。

存在しなかった価値を生み出し、
喜びと愛で宇宙を創造し続けます。

私達自身の可能性について、
私達は知り尽くすことが出来ません。

どんなに不可能な時にも、道ができるのです。
立ち止まっている時でさえ、
道は作られて行っています。

知らない間に道を造っていたことに気づくことは、
幸せです。

でも、道はずっと続いており、
知り尽くすことの無い経験が私達の前にあります。

気づきのすぐ後に、今知ったことがすでに過去であり、
私達がすでに新しい創造を始めてしまうとき、
その安堵と過去を離れ、不安定な無知と無限と闇に包まれながら、
私達は暫時的に、悲しみや苦しみを感じるのだと思います。

私達が暗闇の中にいる時、
私達は同時に光を創造しているのです。

私達の目や耳や、嗅覚や、触覚や、意識が感じ、
それを自覚することになるのは、
私達が創造を終え、
その新しい何かが世界に存在することになったときの一瞬だけ。

そして私達はすぐに次の創造を始めます。

私達が創造している時には、
私達は生命と愛の情熱に突き動かされ、
殆ど無意識ともいえる「自分にとってだけの正しさ」という、
聖なる衝動の中で、無心に存在しています。

それが暗闇でもあるのです。

暗闇と光は表裏一体。
どちらも同時に存在しています。

私達が暗闇の中にいる時にも、
私達は光の中にいるのです。

ただ、私達が創造しているときに見えるのは暗闇なのです。

暗闇は創造にその存在方法をゆだね、
あらゆるレベルでの自覚を拒みながら、
あらゆる定義を、つまり制限を拒みます。

定義も制限も自覚の無い、無境界無価値の世界で、
新しい価値が作られるのです。

それはとても苦しいプロセスでありながら、
創造が終わったとき、
私達を、
意識から放たれた無限と、光の経験へと誘い、
神聖な喜びに満たしてくれます。

私達に必要なのは、その喜びを、
光の経験を受け入れることなのです。

私達が真に光の経験、
あるいは光そのものを自分の中に受け入れたとき、
私達そのものが、どんなときにも本質的な光であることを自覚し、
どんな闇の中でもその見えない光を忘れずに、
創造を貫くことができるようになります。

すると、闇の中でも、光を感じながら、
創造のプロセスに喜びを感じながら、
存在することが出来るようになります。

闇を統合するというのは、
闇を拒否せず、神聖な創造を貫く勇気を持つことであり、
見えない光を、私達が常に抱きながら、
闇自体にその光を見いだすことで、
闇の中で、
あるいは闇に形と新しい価値を創造することなのです。

2016年8月
仲裕美子